閑話休題 4 テクストの話
ブログをはじめて約1ヶ月が過ぎました。
テーマを絞って、未知の世界をあれこれ探索していますが、何かを書くのは結構楽しい。
今回はテクストの話になります。それではよろしくどうぞ。
毎期テーマを決めて、東洋の古典を読んでいます。
読んだら、絵(図)にして、読んだ内容が再生するように再読み込みします。
理屈が最後まで通れば、理解できたことになり、通らなければ、消化不良になります。
読んだテクストはまだまだ少なく、かつ消化不良を起こしたものもままあります。
そのうち読めるようになるといいな~、と思い読んだものを一旦棚上げしています。
それにしても、儒教、道教、仏教の古典を読んでまいりましたが、どのテクストもクセがあります。
そのクセ(ストーリィの展開)は、大体下記の内容になります。
大陸系でオーソドックスな論理の組み方は、連鎖式ですね。
AならばB、BならばC、CならばDになるようになっています。
普通論理で考えるとその式の起こりうる確率は最終的には50%になるので、
立論としては不適格になると思われますが、なぜか最初のAに戻る循環式になります。
このあたりがWekipediaとは違い、かならず昔の百科事典のように閉じるようになっている。一つ一つの内容もただの言葉ではなく、主にイベントですので、トートロジーに陥ることなく読める。儒教など中国の古典に多いケースだと思います。
次に意味不明系に陥りやすいのはだいたい2つあって、1つは論理式ではなく、連立になっている類です。普通に文章を読んでいたら、前後がかみ合わないので、さっぱり理解できず、読み終わると消化不良になります。
必ず、要所要所のキーポイントを、一旦仮留めして、その要素を一枚のフレームに落とす。
落としたフレームから上から俯瞰するように、組み直して、また読み直す。
仏教で言うところの、華厳や曼荼羅なんかはこのケースだと思います。
これに気づくまで、結構時間がかかりました。
2つ目は連鎖式と連立に組み合わせでしょうか。ヘーゲルの正反合とは違い、仏教の三段論法なので、ここの違いが分からないとまた迷子になる。
また、各派閥の考え方も押さえ、かつヨーロッパの考え方から一旦離れて読まないと、そもそも論としてもう読むことは難しくなります。
あとは最後に自分でQ(クエスチョン)を持たないと、情報は引き出せないですね。本屋さんに売られているものとは違い、100年超えした普遍的なテクストです。本屋さんに売られているのは、長くても半年ぐらいで調整された内容です。100年越しのテクストは、その読む人がその時代の解決したい問題があって、再度読むことになります。したがって明確なQを持たない限りは、Aを得られるはずもなく、ただのWikiになります。このAを得られた人は、いわゆる公で活躍できる人だと、私は考えています。その場限りではなく、長い目で考えられる人だからです。
しかし、読んでみると、分からないことが多くなり、専門家を訪ねることになります。
その専門分野にどっぷり漬かると、もう抜け出せなくなる。このあたりの按配は結構難しいです。分かりやすい例であげれば、ノーム・チョムスキーの言語学とかでしょうか。
ちょっとしたカルトになってしまいます。
よく最近ちまたで流行している人工知能はただのQ&Aの繰り返しで、統計処理の結果です。これが知性(インテレクチャル)、つまり新しい読みや考え方を生み出す方法は、人工知能と一緒に考えてしまうと、もったいないです。
やっぱり本は面白いですね~。
ご一読ありがとうございました。